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2012年12月10日

プロフィール

はじめまして。
今村さんちの香りしいたけ、店長の鳥居嗣代(つぐよ)と申します。

私は24歳の時、この会社に勤め始めました。
この会社とは株式会社今村建材。実は私の実家の家業なんです。

今から3年前、この会社の新規事業としてはじめた「椎茸事業」。
日々多くのお客様と接しながら、一歩ずつ前に進んでいるところです。


このブログを通じて、ひとりでも多くのお客様に
私たちの想いを届けることができたらと思っています。

椎茸事業のことをお話しする前に、少し自己紹介をさせていただきます。



<内気だった幼少時代の思い出>



私は、今村家の第一子として、この世に生を受けました。
とにかく手がかからない。
寝る子は育つと言うけれど、朝も起こされるまで永遠と寝続けたそうです。
親戚の家に行っても何も話さないので、
「病院へ連れていったほうが」なんて言われたことも。
おとなしい子供時代でした。

二歳になるのと同時に、弟が誕生。
それから一年八ヶ月後、妹が誕生。
私はあっという間に、3人姉弟のお姉ちゃんになりました。


両親が結婚する時に立てた23坪の小さな平屋に、家族5人暮らし。
数少ない部屋の一つは事務所となり、
そこに私のピアノも置かれていたことを覚えています。


この頃、父が10年務めた会社を退職。
中古のダンプ一台を借金で購入し、今村建材を立ち上げた…
といえば聞こえはいいのですが、
1日仕事へ行けばどこかが故障してしまうようなダンプで、
帰ってくると自己流で修理し次の日また出かけて行く…
というような毎日だったと聞いています。

和裁の免許を持っていた母は、
家で呉服屋さんから頼まれた仕立ての仕事をしていましたが、
父が脱サラしてからは二人三脚の日々が始まりました。



<家族の絆と自分の使命を感じた思春期>

私の二つ年下の弟は、へその緒を二周巻いて生まれてきたため、
出産直後は顔色や皮膚が青みを帯びた状態(チアノーゼ)が出てしまい、
成長と共に、言動が普通の子と少し違うことは誰もが認識していました。


ただ、それが原因で周りの子供たちからのいじめも頻繁にあったのです。


当時内気だった小学生の私には、そんな弟をかばってあげる勇気もなく、
聞こえないふり、平気なふり、そして何も感じないふり・・・
何もできない自分がいました。


そんな弱い自分から脱却したくて、必死であがいていた小学5~6年生だった頃の私。
「強くなりたい。」
子どもなりに考えた自己鍛錬法で、中学に入ると少し荒れていそうな部活に身を置きました。


本当にいろいろあったけれど、でもそんな弟がいたからこそ
私たち家族の力になっていただける方たちとの、ありがたい出会いにも恵まれました。


心ある人たちに支えられながら、
弟の身に一つ事件が起きるたびに、私達家族は強い絆で結ばれていきました。


そして、

「いつか将来、この家を継いでいくのは私の使命である」

と考えはじめたのもこの頃からでした。



<人生の転機>

地元の高校、専門学校を卒業し、東京に本社を置く地元の物流会社へ就職をしました。
そして3年後の24歳、実家である株式会社今村建材へ入社。

数年後には、結婚・出産・育児と人生の節目を迎え、
職場復帰をしようとした矢先のことです。

私が今こうして「椎茸事業」に携わる決意ができた
と言っても過言ではない人生の転機が訪れたのです。


■幼稚園役員

下の子が幼稚園入園とともに父母の会の三役を依頼された私。
それまで人の先頭に立って何かをやり遂げることなんて無縁の人生でした。
でもこの時ばかりは理由があって引き受けることにしたのです。

実は、母の長年の友人で人の為ばかりに人生をささげた人「げんちゃん」が、
突然この世を去ったばかりでした。

この人は私の子供たちの名付け親でもあったのです。母は言いました。


「げんちゃんだったら、嗣ちゃんやってごらんって言うだろうね。」

大好きだった彼女の生きざまを見て、

「今度は直接自分の手で誰かの役にたちたい」

と思った私は、その役を引き受けたのです。


サークル活動、運動会、音楽会、もちつき…
バザーについては半年間もの準備期間が毎年必要でした。
協力していただく多くの手ももちろん必要でした。

意気投合した3役の力を合わせてその1年目を乗り切り、
翌年には副会長、そして翌々年には会長となりました。

数年前まで父母の会の会長だなんて他人事としか思っていなかった自分が、
生活のほとんどをそこに注ぎ込んでいました(笑)


ここの仕事の割り振りや意思の伝達、人の流れを決めるのは私の仕事。
しっかりと指示を出さなければならなかったし、うまく回せるかは私次第でした。
とても勉強になったし、何よりも任せられたお母さん方は本当に生き生きと、
自分のいやそれ以上の働きをしてくれたのです。
力仕事などで大活躍のお父さんたちと仲良くなれたのも、嬉しいことでした。

心からの感謝の気持ちとともに、
いろんな考えを持つ人の集まりでも目的に向かって一つになる楽しさを知ったのもこの頃でした。


そして三年間、私は多くの方たちのご協力のもと何とかやり遂げることができたのです。

充実した笑顔いっぱいの仲間たちとのかけがえのない時間。
恐らく私の人生で一番の達成感を味わった瞬間でした。


そしてこの時に感じたことが、


「女性が活躍できる場がもっとあるはずだ」



<しいたけ事業のはじまり>

幼稚園での多忙な日々が終わった頃、
母と私は、突然新規事業を始めるという報告を
聞かされることになります。

椎茸事業を始めるきっかけになったのは父でした。
たまたま知人からの紹介で椎茸栽培の見学に岐阜へ行った父は、
なんとその場で椎茸栽培をやると宣言して帰ってきたのです。

当初は、全くの素人がはじめてうまくいく訳がないと
猛反対していました。

そんな私の抵抗をよそに、父は夏の間に中古のハウスの
骨組みだけもらい受け、ハウスを立ててしまいました。
良くも悪くもこういうことは全て自社でできてしまうので
行動がもの凄く早いのです(笑)


秋になると、まず母と妹が岐阜へ研修に行き、
入れ替わりで私が研修に参加しました。
そしてあとから父が追うようにやってきて、
家族総出で椎茸事業に関わっていきました。


午前中は椎茸の収穫、午後は出荷のお手伝い。
私は中国人の研修生に上手とほめられました(笑) 

研修から帰ってくると、まず1000本の菌床を仕入れて
栽培のお試し期間が始まりました。
この頃になると、椎茸は可愛くて、そしてなにより美味しいと
思うようになっていました。

知り合いに配るとみなさん喜んでくれて、
買いたいと言ってくれる人もいました。
このシーズンは何回か菌床を仕入れ、
椎茸栽培の勉強期間としました。


この研修に行っていいなと思ったこと。それは、

「椎茸事業は、子育てしながら頑張る仲間たちに
働く場所を提供できるかも知れない。」


椎茸栽培には人手が必要です。
それを話した友人たちもとても喜んでくれました。

「あなたのところだったら一緒に働きたい」と。

私は、あの幼稚園の父母の会の役員をやっていた時の感覚を思い出していました。
それぞれの得意分野が活かせたら…


当時の私は、社会人経験も少なく、仕事に対しては胸を張って
「これだ」と言えるものが正直ありませんでした。
でも、環境が全く異なる世界かも知れないけれど、
私には幼稚園でひとつの目標に向かって突き進み、
支えてくれた沢山の仲間がいて、
今でも私を必要としてくれる人たちがいる。



大きな不安を抱える中で、父がはじめた椎茸事業を
今こうして母と私がやっていこうと決意することができたのも、
あの時の経験と、かけがえのない仲間がいたからなんです。




<将来の展望>

そんな私には夢があります。

私たちがつくる しいたけが皆さんの普段の食卓に並び、
今までしいたけを食べられなかった大人も子供も


「お母さんのお料理美味しいね!

 だってこのしいたけなら食べられるもん」


そんな何気ない会話と笑顔で溢れる幸せな食卓が

日本中に広がっていくこと




何度も選ぶべき分岐点がある女性たちの人生。
そんな中でも


力をもっている仲間たちやお母さんたちが

笑顔で働ける場所を創出し、

やりがいを持って働ける環境を作っていくことです。








そしてできるなら、



障がいを持つお子さんを持つお母さんに、心を寄せて行きたいこと。

いつかもっと力をつけて彼女たちが困った時に

手を差し伸べられる人でありたいと思っています。




弟がもたらしてくれた家族の絆と、
幼稚園で出逢った沢山の仲間達との絆

この2つの宝物を大切に、夢に向かってこれからも頑張っていきたいと思います。


こんな私ですが、「今村さんちの香りしいたけ」を今後ともよろしくお願いいたします。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


平成24年 12月10日 今村さんちのしいたけ 店長 鳥居つぐよ




  

Posted by 今村さんちの香りしいたけ 店長つぐりん at 00:30Comments(1)◆プロフィール
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